評価
創作をして人様に積極的に公開している時点で、「評価」というものは多かれ少なかれ必ずついてくる。私達同人作家にとっては、戴ける感想であったり、ブックマークであったり、閲覧数、イイネ、リツイートと現代のネット社会においてその種類は多岐にわたる。アナログ時代の同人活動を知らない私でも、そんな目に見える評価を貰えること、またその機会・チャンスがネットを開けば無限に広がっていることは、とてもありがたいことだと思う。書いたからには見てもらいたいというのが表現の基本だと私は思うので。
だけれど、そんな評価を得るチャンスが増えるほど、苦悩を抱える人もまた増えてゆく、とも思う。
誰しも、評価されるからには高評価を望む。自分の作ったものが「イイネ!」と言われたらそりゃ嬉しい。嬉しくて仕方がない。だが当然、そうでない評価もされる。何事にも賛否はあって、100%賛同を得られるものなんて、むしろこの世にはひとつもないんじゃないかと思うし。これ何ヶ月も温めてきた渾身の一作!とか、とても思い入れの強い作品!とか、いかに熱い"思い"があったとしても、0点!みたいな評価がつくこともある。先程も言ったけれど、それって仕方のないことだ。悲しいことだが仕方がない。もっと悲しいことを言えば、ネット上ではよくあることだ。
そんな時、悔しいけれど仕方ない、とスッと思える人は、ぶっちゃけここから先に書いてあることを読んでも「そんなの当たり前でしょ」としか思わない気がするので、なんなら読むのをやめてもらってもいい。私は今でこそ慣れはしたものの、やはりかつては苦悩したクチである。だからこそ、これを書いている。決してそういう方に向けたアドバイスとか指南みたいな話じゃないのは、先に断っておきたい。私が私なりに"納得"して今も創作を続けている、その振り返りを書きたいだけだ。
保育園の時、こんな事があった。
私は友人のユッコとかるたをしていた。かるたの絵柄は、様々な童話である。シンデレラとか白雪姫とか、桃太郎とか金太郎(銀ちゃんw)とか。なんせ幼児であるから、私達は本来のかるた遊びをせず、絵札だけを見て楽しんでいた。これが可愛いとか、きれいだとか。
ユッコは少し強引な女だ。声も身体もでかい。仲は良かったけれど、クラスで一番小さい私はいつも気圧されていた。
ユッコは「可愛い絵は私のもの!」とジャイアンさながらの暴挙に出た。絵札の束を、可愛い、可愛くない、可愛くない、可愛い、と仕分けはじめた。可愛い絵のかるた(お姫様やうさぎちゃん)は自分の手元に、可愛くない絵(コブ取りじいさんやたぬき)は私に放り投げた。私は、私も可愛いお姫様がほしいと思った。だけど言えない。ユッコは超怖いからだ。自分の手札が、じじぃやいじわるな動物でいっぱいになってゆく。色でいうとユッコはピンクや黄色なのに、私は焦げ茶やねずみ色、という具合に。悲しくなってきた。
だが不意に、私に「赤ずきんちゃん」がきた。あ!可愛い!と思った。
一瞬、目にもとまらぬ速さで仕分けをするユッコが間違えたのかと思った。だけど違った。私はユッコを見た。ユッコは手を止めて言った。
「赤ずきんちゃんなんか可愛くないから」
私は、それを聞いてがっかりした。がっかりした理由を考えて、更にがっかりした。
私は、ユッコが私にも可愛い絵をくれようとしたわけじゃなかったことに、まず落胆した。そりゃそうだ。そして与えられた瞬間は嬉しかったはずの赤ずきんちゃんが「ユッコが可愛いと思ったものじゃない」と知った途端に、色褪せて見えたのだ。
それはつまり、自分が可愛いと思えばそれは可愛いのだ、とは思えず、ユッコの仕分け上ではこれはねずみ色の部類なのだと「他人の評価により価値が下がってしまった」ということだった。
この出来事を、私は今でも強烈に覚えている。ユッコの圧力のせいじゃない。自分の価値基準のあまりの脆さを見せつけられて、心底自分にがっかりした思い出として。所詮幼児期の話だろう、子供の頃は影響されやすいものだ、そんな圧の強そうな友達には特に...。などとは思えない。なぜなら、大人になっても私の価値基準はこの時からさほど成熟することなく脆いままだったからだ。
人の意見に踊らされ、友達の噂話に合わせて、面白くもないのに笑い、何の恨みもない相手を嗤った。今は思う。私の心は一体、どこにあったのかと。そして今、そう思えるのは、自分なりに本気で創作をして、顔も知らない人々に繰り返し繰り返し評価をされ続け、誤解を恐れず言うならば、その評価に振り回され続けて疲弊して、それでも、何度それを繰り返しても創作をやめられなかったからだ。心の在処が、うっすら見えたから。
回りくどくなってしまったので、そろそろ本題を書くことにする。作品は読んでもらってナンボだし、評価だってされないより、された方がずっといい。何より、自分の為になる。だが、私はずっと苦しかった。何故何より好きなことをやっているのに、やめられないから続けているのに、こんなに苦しいのか。納得がいかないのか。達成感がないのか。自分の「良い」と、他人の「良い」は何が違うのか。何を信じればいいのか。何故、なぜ、なぜ...。
そして、ユッコの出来事を思い出した。そしてわかった。私には、どうしても人が「良い」と言ったものが「良く」見え、「悪し」と言ったものが「悪く」見えてしまう壊滅的な脆さがあるのだと。思えば姉にもよく言われた。「そんなの全然可愛くない」。姉妹ならよくある口喧嘩。そう言われれば、姉のものは良く見えたし、自分のものは色褪せて見えた。ずっとずっと、そうだった。そりゃ踊らされるわ、と、急に腑に落ちた。
外からの評価を基準にしているうちは苦悩は続くんだ。相手が変われば0点が100点にもなり、その逆にもなる。その度に物の価値が変わってしまうのなら、私が書いている最中に感じていた「面白さ」とか「愛着」って一体なんだったのかってことになる。
当たり前過ぎたことだ。だけどその事に、私はこの歳になるまで気づかず、ずっとずっと、心の在処を見つけられずにブンブン評価の遠心力に振り回されてきた。ブクマの伸びた作品ばかり読み返し、少ない作品は色褪せた。だけど色褪せたはずの作品も、褒められれば一気に自分の中で価値があがった。みな同じ時間を要して、同じ思いで、その時一番おもしろいと思うものを書いたはずなのに。これはいけない、と、私は自分のすべての作品を振り返った。読み返した。どうしてこれを書こうと思ったか、どんな思いで書いたか、どこで苦しんで、どこが一番気に入っていてどんな思いで読んでほしかったか。
読み返したら、全部、大好きだった。
私は何も、自分の作品をすべて平等に愛するべきだとは思ってない。時間が経てば、そりゃ読み返すのも恥ずかしくなるものだってある。解釈が変わってくることだってある。そんなはっきりと自分の心の中で色褪せているものは、別れを告げて消したっていいと思う。ただ、それが本当の自分の価値基準であるならば、の話。
今の私はどうかというと、数字にはさほど振り回されなくなった。勿論多くあるには越したことはないもので、貰えたらとても嬉しいし、傾向を知るひとつの基準にはなる。だけど、本当に書きたかったことが書けたなぁ、気に入ってるなぁと思う作品が数字的には最も低かったり、というのはザラで、小説でも漫画でも、割と今はその傾向にある。これは私にとってとても良いことである。数字が伴わなくてもその作品を胸を張って好きと言える、その証明になっているからだ。その事実にも、ふむふむ、面白い、としか思わなくなったからだ。
あの時ユッコに与えられた「赤ずきん」の絵札を、幼い私の胸にそっとしまってあげたい。「可愛い!赤ずきん可愛いよ!"私"がそう言うんだから間違いない!」そう、背中を叩いてあげたいのだ。
それは"私"だから、できること。他の誰でもない"私"にしか、できないことだから。